物語 第九十九回

方臘乱平定


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 幇源洞を攻め囲む梁山泊軍。方臘軍から兵を率いて現れた柯引と名乗る男、まさしくし柴進だった。別行動の柴進と燕青は、敵の本拠地を探るため柯引と雲碧と名を変えて潜入し、巧みな言葉で方臘の信頼を得た柴進は、都尉の地位を手に入れ駙馬となっていた。
 柴進はさらに信用を得るため戦いに参加した。花栄との戦い最中で密かに、明日行動を起こす事を告げ、関勝、朱仝とも戦い梁山泊軍を退かせ、方臘軍は勝利を得た。

 翌日の戦い、方杰が先頭に立ち柴進と燕青が控えていた。方杰は関勝、花栄と戦うが、力衰え退くところを柴進が遮り正体を明かす。方杰は形勢悪しとして逃げ出すが燕青が飛び出し討ち取る。関勝達は柴進の案内で幇源洞に斬りこんだ。高台から眺めていた方臘は裏山へ逃げ出した。
 方臘配下は全て斬り殺したが、方臘ひとり取り逃がしていた。阮小七は方臘のまとっていた天子の衣装を見つけると、身に着けふざけて走り回った。兵士は皆笑っていたが、王稟と趙譚は怒鳴りつけた。阮小七も怒って二人を罵ったため、争いとなるところ、呼延灼が静止した。

 ひとり逃げ出した方臘だが、魯智深によって捕えられていた。魯智深は夏侯成を追って討ち取り、道に迷ったところ助けられた老僧の言う通りに森で待ち構えていると方臘がやってきたので捕えたと言う。老僧は何処へと去っていた。
 多くの犠牲者をだした梁山泊軍の方臘征伐は終わり、乱を平定した。張招討に報告し方臘を護送した。方臘は東京へと送られは処刑となる。
 睦州へと移動した梁山泊軍に、杭州で張横、穆弘、孔明、朱貴、朱富、白勝が病死との知らせが入った。回復した楊林と看病についていた穆春が合流した。生き残ったのはわずか三十六人だった。

 宋江は烏竜神廟に行き祈りをささげ杭州の六和寺に駐屯。その夜、休んでいた魯智深が戦の音を聞きつけ飛び出したが、その音は潮信呼ばれる銭塘江の潮の流れだった。魯智深は智真長老から受け取った四句を思い出し、円寂とは死ぬ事だと聞かされると、身体を清め運命に身をゆだねた。連絡を受けた宋江が駆けつけたころには、座禅のまま命尽き果てていた。
 宋江たちは悲しみ供養を行った。武松は片腕を失い、東京へ凱旋を希望せず六和寺にとどまり寺男として生きる道を選んだ。

 半月ほど滞在し、張招討や童貫は東京へ帰還した。梁山泊軍も帰還となったが、林冲は風疾で倒れた。楊雄は背中の腫れ物によって死に、続いて時遷も病死した。丹歩県の楊志も回復せず病死したとの知らせがはいった。
  帰還を迫られているため、林冲を残したままの出発となった。六和寺に残る武松は林冲を看病したが、回復せずわずか半年だった。武松は八十まで生き、天寿を全うした。

 凱旋途中、目先のきく燕青は朝廷に従う事には未来がないと感じた燕青は、盧俊義に別れを告げ、宋江に手紙を残し何処へと去っていった。
 蘇州に着くと李俊は病と偽り倒れ、回復したら後を追いかけるので童威と童猛を看病に残してくれと言う。宋江は李俊の言う通りにし東京へ向かう。
 李俊達は隊列を離れ別行動をとり、約束を果たすため楡柳荘で費保達と合流し、七人は大船を建造し外海へ出た。李俊はのちに暹羅国の王となり、費保達六人は役人となり、優雅に暮らを送った。

 梁山泊軍が東京へ凱旋すると、李俊に付き添っていた兵士が戻ってきて、官職は臨まず何処へと去ったと告げた。残った二十七人は徽宗皇帝を拝した。皇帝は百八人が四分の一になっているのを見て心を痛め、苦労をねぎらった。
   二十七人はそれぞれ官職と褒美を授かり、戦死した者にも爵位が授けられた。特に霊験を表した張順、方臘を捕えた魯智深、六和寺に残った武松、戦死した扈三娘と顧大嫂には別に爵位と褒美が追贈された。兵士は臨むものは雇われ、希望しない者は褒美を受け去った。

 二十七人は職に就く者は任地へと向かい、希望しないものは故郷に戻り良民となった。宋江は楚州への赴任を前に故郷へ戻る許可をもらい、宋清とともに宋家村に戻ったところ、すでに宋太公は死んでいた。宋江と宋清は悲しみつつ亡き父の供養を行い、世話になった人々にお礼をすると、九天玄女廟を再建させた。
 宋清は官職を希望しなかったので、宋家村の家を継ぎ、農家として暮らす事となった。幾日かを過ごし、宋江は東京へと戻った。

 


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