
双方見守る中の一騎打ちは、関勝の力が勝り、偃月刀によって邢政は斬り殺され、六人の統制官は退いた。多くの兵を失ったと聞いた呂師嚢は戦意を失い、統制官とともに、常州目指して退いた。
宋江の本隊は潤州城から丹徒県へ進み、張招討に潤州城を守るよう報告した。宋江と盧俊義は軍を二隊に分け、それぞれ三万の兵を率い、宋江が常州、蘇州を攻め、盧俊義が宣州、湖州を攻める事となった。楊志は病気になり、丹徒県に残る事となった。
先に阮小七と石秀の捜索にでた童兄弟の報告で、焦山から船を使って海沿いの州府を攻めたいとの事なので、水軍頭領七人に孟康を加え、五千の兵を向かわせた。
常州を守備するは銭振鵬、退いてきた呂師嚢と潤州奪回の対策を協議したが、先に敵が攻めてきた。関勝が十人の馬軍頭領、兵三千を率いる先鋒隊だった。
銭振鵬は六人の統制官と城を出て布陣。銭振鵬は関勝、統制官の趙毅、范疇が援護に出ると、対するは黄信と孫立。許定と金節が出ると、対するは韓滔と彭玘。みな五分の戦いを繰り広げた。
その中で、金節は宋国への帰順を願い、梁山泊軍との戦いを避け負けたふりをして退いた。戦う韓滔は果敢に追いかけるが、高可立の弓で狙われ、矢は頬に当たり落馬。張近仁に突き殺された。
怒った彭玘は戦っていた許定をすて、高可立に向かっていったが、張近仁が横から飛び出て槍で彭玘を突き殺した。
関勝は銭振鵬を討ち取ったものの落馬し、危ういところを徐寧に助けられ退いた。この戦いで張近仁によって韓滔と彭玘が戦死し、多くの兵を失った。
翌日、宋江の本隊は李逵の歩軍を先鋒として出陣、呂師嚢は高可立と張近仁を出陣させた。項充と李袞は団牌で李逵と鮑旭を守りながら急襲し、ひるんだ高可立は李逵に殺され、張近仁は鮑旭が討ち取った。この夜、金節は密かに手紙を宋江へ送った。
呂師嚢は金節の助言で篭城したが、凌振の砲に驚かされると四の城門を開き戦いを命じた。金節は手紙に書いた通り、負けたふりをして退き、城への道を作ると、孫立を先頭に西門から梁山泊軍が突入した。
城を失い呂師嚢は許定に守られながら、無錫県へと退いた。
この戦いで応明は戦死、范疇と沈抃は生け捕り、趙毅は隠れているところを住民によって捕らえられ、三人は処刑された。金節は宋江と対面し、張招討に引き合わせた。のちに都統として金国との戦いで手柄をあげるのだった。
関勝は十人と兵一万を率いて先鋒となり、無錫県へと進んだころ、盧俊義隊から柴進がやってきて、宣州を奪還した事を報告しにやってきた。だが、宣州で敵の四将を討ち取ったものの、鄭天寿、曹正、王定六が戦死していた。
