
揚州と潤州を分つ揚子江の真ん中には金山と焦山の二つの山があった。まず偵察隊として、柴進と張順、阮小七と石秀が組になりそれぞれ山へ向かった。
張順は金山で揚州から潤州の呂師嚢のもとへ向かう陳家の船をつかまえて、情報を全て聞き出すと船乗り達を斬り殺した。揚州で方臘の手引きしようとする陳家へ乗り込むのは燕青と解兄弟。呂師嚢の使者と名乗り信用させ、情報を引き出すと陳家の親子を殺し船と米を奪った。
計画が整うと穆弘と李俊が陳家の息子に扮し、三百の船に好漢達が乗り込み潤州へ進んだ。知らせを受けた呂師嚢は十二神将を率いて、江岸を守備した。穆弘は船と米、五千の兵を献上すべく呂師嚢に伝えたが、怪しまれ城内へ案内されたのは穆弘と李俊の二人だけだった。
しばらくして船にて待機していた張横や李逵だが、待ちくたびれて暴れ出し、城内へ乱入。十二神将は立ちはだかったが、史進は沈剛を、張横は潘文得を討ち取った。他の十人は城へと逃げ込んだ。
穆弘と李俊は騒ぎを聞きつけ、城内に火を放ち暴れ回った。宋江の本隊も上陸し城へなだれ込む。劉唐は沈沢を討ち、孔兄弟は卓万里を生け捕り、項充と李袞は和潼を生け捕り、郝思文は徐統を討ちとった。呂師嚢は生き残った統制官に守られながら、丹徒県へ退いた。
潤州を奪い返したが、宋万、陶宗旺、焦挺が戦死していた。宋江たちは三将を失い悲しみつつ、二人の捕虜を処刑した。
関勝たち十人は五千の兵を率いて丹徒県へ向かった。途中で蘇州からの援軍を率いる邢政と六人の統制官に遭遇。関勝と邢政の戦いとなった。
