
檀州を落とした梁山泊軍は開封へと戦いの成果を報告した。報告をうけた徽宗皇帝は喜び、信頼のおける趙安撫に二万の兵をつけ、観察に向わせた。
檀州城に入城した宋江達は戦いの後始末を終えると、北地の情報に詳しい楊雄から薊州が遼国の重要拠点である事を聞き、次の攻撃目標を薊州に定める。開封から来た趙安撫を出迎え、檀州城の守りを頼んだ。
梁山泊軍は宋江隊、盧俊義隊と二隊に別れ、それぞれ平峪県、玉田県を攻める事となった。
檀州から逃れた洞仙侍郎と咬児惟康は、楚明玉、曹明済と合流し兵をまとめ、薊州城へと逃げのびた。城を守るのは遼王耶律輝の弟、耶律得重。梁山泊軍が薊州へ向け進軍したと聞くと、覇州と幽州へ援軍を求めた。総兵大将の宝密聖に城の守備をまかせると、自らは四人の息子、耶律宗雲、耶律宗電、耶律宗雷、耶律宗霖と、副総兵の天山勇、以下数名の将軍ともに兵を率いて出陣した。
三万の兵を率いる盧俊義隊は玉田県で耶律得重の軍と遭遇した。盧俊義は朱武の助言を聞き、陣を整えると、遼軍も耶律得重を中心にし、四人の息子が左右を守るようにして布陣した。
まず梁山泊軍から関勝が進み出ると、遼軍からは耶律宗雲が飛び出し一騎討ちとなった。ひかえてい耶律宗雲の弟達が次々と飛び出すため、関勝一人では不利と、呼延灼、徐寧、索超が飛び出し四組の激しい戦いになった。
張清は敵将を討ち取るべく前へ進み出たが、それを見ていた天山勇は、二人の将軍の後ろに身を隠し、得意の一点油と呼ぶ弩で秘かに張清に狙いを定めていた。敵の動きを察知した張清だが、投げたつぶては敵将のかすめただけ。天山勇の放った矢を咽に受け落馬した。
張清は董平と史進に助けだされ、すぐに檀州の安道全の元へ運びこまれ治療を受けた。盧俊義は張清が負傷した事で軍を退いたのだが、勢いに乗じた遼軍の追撃にあい、隊は散り散りとなった。単騎で迷走中の盧俊義は、耶律得重の四人の息子達と遭遇、激しい戦いの末、耶律宗霖を討ち取った。
盧俊義は呼延灼、関勝と合流、董平や徐寧の活躍によって玉田県を落としたと聞くと入城して、散り散りとなった仲間を呼び集めた。
やがて遼軍も兵をまとめ四方から攻めてきた。燕青の弩で耶律宗雲を討ち取ったものの、遼軍に城を包囲されてしまい、動きがとれなくなった。だが翌朝、平峪県を攻めていた宋江隊の援軍がやってきた。盧俊義も城を出て遼軍を追い払った。
翌日、宋江と盧俊義は兵を率いて薊州攻略へと向った。すでに薊州攻めの計略は整い、石秀と時遷は逃げる遼兵にまぎれこみ、薊州城内に潜入していた。
薊州では宝密聖と天山勇が城外に布陣していた。立ちはだかる宝密聖に対して梁山泊軍からは林冲が進みでて一騎討ちとなり、蛇矛で宝密聖を突き殺した。徐寧も天山勇を討ち取ると、梁山泊軍は逃げ出す遼兵を追撃して薊州城へと迫った。
洞仙侍郎は命じられるまま、檀州での配下三人の将軍と兵を率いて城外へ出て戦いを挑んだが、すでに戦意をなくしていたため、咬児惟康は索超の斧によってまっ二つにされ、楚明玉と曹明済は史進によって討ち取られ、洞仙侍郎は城へ逃げ帰った。
耶律得重は城門を固く閉ざして援軍を待っていたが、城外からは激しい城攻め、内からは石秀と時遷が宝塔に火を放ち大混乱。耶律得重は家族をつれて薊州城を棄て幽州向けて逃げ出し、洞仙侍郎も後を追った。
薊州城を落とした梁山泊軍、戦いの後始末を行い兵を休ませた。翌日、玉田県の守備を盧俊義隊にまかせ、薊州城を宋江隊が守り、戦果を趙安撫に報告した。
燕京では耶律得重から報告を受けた遼王耶律輝は、梁山泊軍について部下達の意見を求めた。右丞相の褚堅は宋朝廷は梁山泊軍を冷遇しいてるので、遼国に迎え入れてはどうかと言うと、欧陽侍郎が賛同した。
