
城壁へと追い詰められた石秀、十人ほどの捕手を斬ったが、盧俊義を守りながらであったため、ついに力つき捕らえられてしまった。捕らえられてもなお石秀は大声で罵ると、北京の人々は梁山泊の勇ましさを改めて知った。
石秀は盧俊義とともに牢へ入れられた。梁中書は蔡福・蔡慶兄弟に牢番を命じ、二人を監視させた。蔡兄弟は梁山泊に好意をもっていたので、二人を痛めつける事もなく、良い食事を与えいたわった。
石秀と別れた楊雄と燕青、梁山泊へ着くと、盧俊義の危機を知らせた。石秀の消息も調査するため戴宗が北京へ向かい情報を探った。
数日して北京に到着すると、すぐに盧俊義の件について情報がはいった。処刑寸前の盧俊義を石秀が救出しようとして大暴れしたが、石秀も捕らえられてしまい牢に入れられていると聞くと、すぐ梁山泊へかけ戻り北京の報告した。
宋江は戴宗からの報告を聞くと、二人を救出すべく好漢達を率いて出陣した。
梁山泊が攻めてきたと知らせを受けた北京、梁中書は兵馬都監の李成と聞達ともに相談し、城外にて梁山泊軍を迎え撃つ事となった。
翌日、聞達は城の守備にあたり、李成と索超はそれぞれ兵士を率いて北京外に陣を布き、梁山泊軍が現れるのを待った。しばらくして北京城外に到着した梁山泊軍、先鋒は五百人の歩兵を率いる李逵であった。
まず北京軍からは王定が騎兵を率いて飛び出し、李逵の歩軍を追い返した。続いて索超も兵を率いて出陣したが、左から解珍・孔亮、右から解宝・孔明がそれぞれ五百の手下を率いて現れた伏兵を見て、索超は兵士を退却させた。
続いて北京軍から主力を率いて李成が現れ、索超の隊と合流した。梁山泊軍からは扈三娘・孫二娘・顧大嫂ら女傑が手下を率いて対峙した。
敵が女だと甘くみた李成と索超は兵を進めたが、またも左右から解兄弟と孔兄弟の伏兵が現れ、不意をつかれた北京軍は隊を取り乱した。退いていた李逵の歩兵も李成らの退路を塞ぐようにあらわれたので、敵に囲まれた形となった李成と索超は道を切り開いて退却し、城外に築いた陣へと戻った。この日、北京軍は多くの兵を失った。
翌朝、苦戦を聞き付けた聞達が兵を率いて李成と合流した。二人は地形の利を生かして敵を迎え撃つ作戦を練った。
この日、梁山泊軍の先鋒として現れたのは秦明。韓滔と彭玘を副将に従えて現れた。対する北京軍からは索超、互いに気の短い二人は出ばなをくじこうと、はげしく武器を交えて一騎討ちをおこなった。二十合ほど渡り合った時、そばで見ていた副将の韓滔が索超に狙いを定めて矢を射ると、うまく臂に矢があたり、索超は斧を投げ捨てて逃げ出した。秦明の隊は北京軍に向かって突撃し、北京軍を追い散らした。
索超は負傷し、手強い梁山泊軍をあいてに、さすがの聞達も支え切れなくなり、ついに陣を棄て敗走。途中李成と合流して、なんとか城へともどった。またも多くの兵を失った北京軍は、城門を固くとざし、城の守りに力を入れた。
城門近くにまで迫った梁山泊軍の恐ろしさを改めて知った梁中書は、城の者を集め相談した結果すぐに都への援軍を依頼する手紙を王定に持たせて密かに城を出した。その後李成と聞達は何度か戦いを行ったが、負傷者が増える一方だった。
数日して無事開封へ到着した王定は手紙を渡し、蔡京に北京の戦況を報告した。梁山泊軍に包囲され落城の危機にあると、慌てて軍事会議を開いて、対処を検討する事となった。
どのように北京を救い出すかを検討していると、保義使の職についている醜郡馬の宣賛が、ある人物を蔡京に紹介した。それは以前知り合いになった地方の巡検の職に就いている大刀の関勝というもので、三国の関羽の子孫で、先祖とおなじく偃月刀をあつかい、一通りの武芸は群をぬき、とくに兵法にたけていて、必ず期待に答えてくれる人物であろうと強く推薦した。
蔡京は宣贊の勧めるとおり、関勝を指揮官として迎える手筈を整え、宣賛を使者として関勝の元へと向かわせた。
宣賛が関勝の元を訪ねると、ちょうど来客していた関勝の義兄弟で武芸十八般を会得している井木犴の郝思文と対面して挨拶を交わし、関勝に北京救出軍の指揮官を勤める様に勅命が下った事を話した。
報国の機会を伺っていた関勝にとって願ってもない事、推薦してくれた事に礼を言い、郝思文と数人の部下ともに身支度を整え開封へと向かった。
蔡京は関勝を見て気に入り、宣賛・郝思文を副将として、北京救出を命じた。だが関勝は北京を救うのなら、主力のいない本拠地の梁山泊を落とせば、おのずと北京の囲みがとかれ、その後討伐するのが良策だと進言すると、蔡京も納得して関勝の作戦通り運ばせる事とし、一万五千の兵を選びだして出陣させた。
